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「魔道士リーリリの冒険」を読んで [同人活動]

*古いサイトからのサルベージ記事

「魔道士リーリリの冒険」を読んで

 この本は光瀬龍の久し振りの新刊「SF」である。帯には、幻想SF長編とあり、さらに「美少女魔道士・リーリリと、頼れる弟・ポンポンの、時空を越えた大活躍」と書いてある。しかし、帯に書いてあることからすると、どこがSFなのだろうかという疑問が沸いてくる。ストーリーは、第一話から第七話まで独立した話で、舞台もどこだかわからないファンタジー世界から、ニューヨーク、はては江戸まで出てくるが、SFらしい仕掛けが少し出てくるだけで、話の大枠はどちらかといえぱファンタジー調である。話そのものは面自いけれども、筋はファンタジーどしてはありがちな感じである。
 けれども、自分にとって少しショックであったのは、光瀬龍までもがファンタジーよりになってきたということである。この頃、ファンタジーが流行っているのは言うまでもないことだが、去年、アメリカでは、ファンタジーの出版点数がSFを上回ったそうであり、日本でも同様である。なぜ、SFが低調なのだろうか。まず、SFは未来を科学と関連させて描くものであるといわれている。ところが、最近のヴァーチャルリアリティーなどに代表されるハイテクが具体的な形を現しつつある現実が、SFのような未来に追い着いてきたのである。そうなるとSFとして書く必要がなくなってしまう。次に、やはり、冷戦の終結と社会主義諸国の崩壊が影響しているのではないかと思う。SFというのは、本来、未来に現実を投影したり、むしろ、現実そのものを描くものであり、その未来というのは全体主義的な社会であったため、全体主義ともいえる社会主義諸国が崩壊すると批判する対象がなくなってしまったのである。さらに、ファンタジーの方が人気があるからである。ファンタジーとSFは世界を作りあげるという点で共通点のあるジャンルであり、科学が批判され、オカルトや神秘的なものが流行る時代では、SFの旗色が悪いのも当然であろう。
 この話は全体の構造として、二元論的なエピソードを持っていて、それが「ママ」ヘと収束するという落ちで締め括られる。これは、光瀬龍も年を取って、「日本的な」一元論ヘ回帰してしまったことをあらわしているようでもある。しかし、このようなほとんど、どう読んでもファンタジーであるのを「幻想SF」として売るのはどういうことなのだろうか。ジャンル分けにこだわるつもりはないが、SF作家から急にファンタジー作家へ変身する訳には行かないのだろう。この本が決してつまらないということはないが、次作は本格的なSFを期待したいところであるが、今まで述べてきた理由により難しそうである。

クラリオン発行 '93クラリオン新歓号(1993)より

解説
 こちらは書評であるがSF論の所は「SFに未来はあるか?」とほとんど同じである。書評としては今一か。これは提携していたサークルの会誌に書いた物。このサークルも潰れたらしい。それに光瀬龍も亡くなってしまった。
タグ:サルベージ
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